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ザイヌル・アービディーン (カシュミール・スルターン朝) : ミニ英和和英辞書
ザイヌル・アービディーン (カシュミール・スルターン朝)[あさ, ちょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビデ : [びで]
 (n) bidet, (n) bidet
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

ザイヌル・アービディーン (カシュミール・スルターン朝) : ウィキペディア日本語版
ザイヌル・アービディーン (カシュミール・スルターン朝)[あさ, ちょう]

ザイヌル・アービディーン(Zain-ul Abidin, 生年不詳 - 1470年)は、北インドカシュミール・スルターン朝の君主(在位:1420年 - 1470年)。
その治世はカシュミール・スルターン朝の最盛期であり〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134〕、宗教的融和が保たれ、経済は発展し、領土は拡大したため、ザイヌル・アービディーンは「ブッド・シャー」(Bud Shah, 偉大な王)として語り継がれている〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕。
==生涯==
1413年、父シカンダルが死亡すると、兄のアリー・シャーが即位した〔Kashmir 〕。
1420年にアリー・シャーはメッカへの巡礼に旅立ち、弟のザイヌル・アービディーンが王位を継いだ〔Kashmir 〕。その治世はカシュミール・スルターン朝の黄金期ともいえる治世であった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕。
ザイヌル・アービディーンは宗教的に寛容であった。彼は父の代に弾圧されたヒンドゥー教徒ら非ムスリムと和解し、カシュミールに帰国させた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。ヒンドゥー教に改宗したい者には改宗の自由が与えられた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。
ザイヌル・アービディーンは新たなヒンドゥー寺院の建設を認めたばかりか、ヒンドゥー教の図書館も修復し、ヒンドゥー教徒の免税地も返還した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。異教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止し、牛の屠殺も禁止したばかりか、サティーの禁止を解くなどさまざまな政策を行った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。
また、ザイヌル・アービディーンの治世、ヒンドゥー教徒は政権で高位の職に就くことが出来、ヒンドゥー教徒のスーリヤ・バットが司法大臣・宮廷医の職を得た〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。ザイヌル・アービディーンの妃2人はジャンムーラージャの娘であり、彼女らは4人の息子を生んだ〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.183〕。
ザイヌル・アービディーンは学者としても知られ、カシュミール語チベット語ペルシア語サンスクリット語をよく理解していた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.184〕。その宮廷ではムスリムとヒンドゥーの文人らで賑わい、彼はマハーバーラタといったサンスクリット語作品のみならず、カルハナの著した王朝の歴史書ラージャタランギニーをペルシア語に翻訳させた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.184〕。彼は音楽にも興味を持ち、グワーリヤル王国の君主はこのことを聞くと、2つの珍しいサンスクリット語の音楽論を送った〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.184〕。
また、ザイヌル・アービディーンは王国の経済発展を試みた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.184〕。彼は中央アジアサマルカンドに人を派遣し、製紙法や製本術を学ばせたり、他にも多くの石切り、艶出し、ビン製造、金箔作り、肩掛け布といった技術を育成した。銃や火薬製造技術も彼の治世で発達した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.184〕。多くのダム、水路、橋が建設され、農業も発展した。
対外的には、ザイヌル・アービディーンはラダックに侵入したモンゴル人を打ち破り、バールティスターン、ジャンムー、ラージャウリーを支配下に入れ、その領土は大きく広がった〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.185〕。
これらの偉業からザイヌル・アービディーンの名声は遠方の地域にまで広がった〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.185〕。彼はインドのほかの地域の指導者のみならず、アジアのほかの指導者たちとも交流をもった〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.185〕。
1470年、ザイヌル・アービディーンは死亡し、50年に渡る治世を終えた。王位は息子ハイダル・シャーが継承したが〔Kashmir 〕、その死を以て王朝は衰退に向かった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕。以後、政権内部の抗争に加え、パンジャーブ地方から度重なる侵攻により、王朝内は混乱が続いた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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